皆さん、こんにちは! 常識に捉われないアイデアと行動力で「世界を明るく照らす稀な人」を追いかけている、稀人ハンターの川内です。
新型コロナウイルスの感染拡大が収まらず、なにかと落ち着かない日々が続いていますね。こんな時は神様、仏様に手を合わせて、心を静めたいと思う方も多いのではないでしょうか? 近年、神社仏閣巡りが人気を集めていますが、僕が再訪するとしたら、山形県鶴岡市。鶴岡市には「即身仏」が四体安置されていて、観光のPRとして「即身仏を訪ねる旅」を推しています。
ところで、即身仏とはなにか、ご存じですか? その言葉は知っていても、詳しくは知らない方がほとんどだと思います。よく、エジプトの遺跡から出土するミイラと似たようなものだと捉えられているのですが、まったくの別もの。ミイラは亡き骸から脳や内臓を抜き、薬剤によって防腐処理を施したもので、即身仏は、僧侶が自らの意志でその形状を留めたまま自然乾燥することで完成します。
なぜ、即身仏になる道を選ぶのか
それでは、なぜ僧侶は即身仏になることを目指し、どうやって自然乾燥するのか。807年に弘法大師・空海によって開創された真言宗の古刹「湯殿山総本寺 大日坊瀧水寺」の第95世貫主、遠藤宥覚さんに、即身仏の由来から教えもらいました。
遠藤貫主によると、鶴岡にある湯殿山は真言宗の開祖、空海によって開かれ、真言密教の修行の聖地となりました。その後の853年、62歳の空海は高野山の奥の院で「入定」します。
入定とは真言密教の修行のひとつで、精神を統一し、無我の境地に至るために瞑想すること。この後、生きた空海の姿を見た者はいないのですが、高野山奥の院では現在も空海が祈りによって人々を救っているとされ、毎日、衣服や食事が給仕されているそうです。
空海の影響力は湯殿山に強く残り続け、やがて庄内地域を中心に即身仏信仰が生まれました。庄内を含む東北の農村地帯はその昔、食糧難に悩まされた地域で、飢餓に苦しむ民衆が後を絶たなかったため、空海と同じように入定し、永遠の祈りによって民衆を救うことを目指す僧侶が現れ始めたのです。日本にはおよそ二十体前後の即身仏が現存しており、そのうちの半数以上は湯殿山で修業した僧侶とされます。
大日坊瀧水寺に即身仏が安置されている真如海上人も、そのひとり。当時としては異例中の異例の96歳まで生きたのですが、自らの命をかけて人々を救うことが使命だと、1783年(天明3年)、東北地方の農村部を中心に数万から数十万人が餓死した天明の大飢饉の真っただなかに、即身仏を目指して入定しました。
御礼の品や手紙に囲まれる真如海上人
即身仏に至る過程は、想像を絶します。
「真如海上人は米、大麦、小麦、小豆、大豆、粟(あわ)、稗(ひえ)、蕎麦、とうもろこし、きびの『十穀絶ち』で体から余計な脂肪や水分をできる限りそぎ落とし、さらに余分なものを体から出すために塩と水だけを摂りながら47日間断食しました。それから、後に内臓が腐敗したり、虫がわくのを避けるために、人体には毒になる漆の樹液を飲んで、地下3メートルぐらいのところに作った土留めの石の室に入ります。石室のなかでは、座棺といって坐禅を組みながら入れる木の箱に入ります。それからひたすら読経します」
石室には2本、節を抜いた大小の竹筒が通してあり、酸素を確保するとともに、弟子たちは太い竹筒から水を送ります。細い竹筒には鈴が通してあり、毎日、決まった時間に弟子が鈴を鳴らすと、僧侶も鈴を鳴らして生存を伝えます。そうして、土中からの反応がなくなると、弟子たちは師匠が成仏したことを知るのです。
その後、弟子たちは竹の筒を抜いて石室を密閉。それから3年3ヵ月後に掘り起こした時に、人の形をとどめていた者だけが即身仏として祀られます。もちろん、朽ち果ててしまうこともあり、その時は無縁仏として供養されるそう。
僕が取材に行った時、橙色の法衣をまとった真如海上人の即身仏は、御礼の品や手紙に囲まれていました。真如海上人は、今も民衆を見守り続けているのです。
時を超えて祈り続ける即身仏
僕はこの時、ほかに湯殿山 注連寺の鉄門海上人、南岳寺の鉄竜海上人、本明寺の本明海上人の即身仏を訪ねました。(※本明海上人の即身仏の拝観については要問合せ)
手弁当で1万人を動員して峠に道を作ったり、秋田で新田開発の指揮を取ったりと、様々な社会的事業に携わったと言われている鉄門海上人は、1829(文政12)年、71歳の時に入定。
鉄竜海上人も、全焼した岩手の連正寺を再建したり、鉄門海上人が開いた峠の道の改修に尽くしたのち、1881(明治14)年、62歳で入定しました。
そして、現存する湯殿山にまつわる即身仏のなかでは最も古く、後世の僧侶や庄内地方一帯に伝わる「即身仏信仰」に少なからず影響を及ぼしたと言われているのが、本明海上人。1000日間の五穀絶ち、さらに1000日間の十穀絶ち、その後、5カ月間、松の薄皮だけを食べるという過酷な木食行ののち、1683(天和3)年に入定しました。
本明海上人は入定の際、「町を見渡せる場所を」と本明寺からほど近い山中に石室を築き、「自分はこれから即身仏になるから、のちの世の人々が自分に対してお願いすることは、どんな願いでもかなえてあげよう」という言葉を遺したそうです。
即身仏とは、厳しい修行に命を捧げて自ら仏になることを目指すものですが、決して悟りを開いたり、仏になること自体がゴールではありません。空海がそうであるように、自分のためではなく、時を超えて疫病や飢饉に苦しむ民衆を救うために、即身仏になるのです。
即身仏は宗教上では「仏様」で、衣を羽織って祀られていますが、誤解を恐れずに言えば、人の亡骸です。でも、即身仏に至る時代背景や理由を知ると、恐れや畏怖ではなく、感謝の念で自然と手を合わせている自分がいました。
全国には観光客が見物に訪れる有名な仏像がたくさんあります。でもコロナ禍に見舞われている今だからこそ、尽きることのない民衆の苦しみや悲しみに思いを馳せ、自分にできる最後の救済の道として即身仏になった僧侶たちの存在にも、もっと光が当たるといいなと思います。
稀人ハンターの旅はまだまだ続く――。
※この取材は2017年に行ったものです。