こんにちは。フォトグラファーのむーちょこと、武藤奈緒美です。
新年初めての投稿を訃報でスタートするのもなんですが、正月早々に元・仕事仲間Oが平均寿命の半分くらいで亡くなりました。脳出血でした。
出逢ったのは10年以上前。当時Oは老舗劇団の演出助手をする傍ら個人名義で作・演出をしていました。
あるとき以前撮ったことがある俳優から主役を演じるので観にきてと連絡をもらい、下北沢の小劇場に足を運びました。太宰治が主人公の舞台で、描き方がとても好きだと感じ、やたらと心に響きまくった勢いで観劇アンケートを熱くしたため、「フォトグラファーをしています。撮影が必要なときは声をかけてください」と一言添えて提出。この舞台を作った人のこれからの舞台に関わりたいと衝動的に思ったのです。
後日、作・演出をしたO本人から連絡をもらい、逢うことになりました。緊張しました。
一見裏方さんのような気配を主張しない雰囲気なのに、話したらものすごい熱量のこもった人だった。ひとしきり話した後で、公演間近の作品があるんで舞台撮影をひとまずやってみましょうかと頼まれました。あっという間の展開でした。
Oの創る舞台は展開がスピーディーなものが多く、ダンスあり歌ありで賑やかですが、その中に必ず心がしんとする場面がありました。毎回明治・大正・昭和を生きた作家を登場人物に据え、生きるうえでついてまわる普遍的な感情(おそらく「孤独」と言い換え得る)を語らせていたように思い出されます。私自身が大学で近代文学を専攻していたこともあって、彼が選ぶ題材に毎回興味津々で、描き方もとても好きで、私を楽しませるために舞台をこしらえてくれているんじゃないのと冗談ながらに言ったこともあります。とにかくOの創る舞台を観るのが好きでした。毎回小劇場での公演なのに、空間のキャパシティーを超えるエネルギーがほとばしっていました。漱石も鏡花も朔太郎も犀星も太宰も中也もみんなそこで熱く生きていた。Oが描くと彼らは、遠く高みに在る文豪ではなく、自分たちと同じ地平に立っている悩めるひとりの人間に思えました。舞台作品がそのまま文学でした。
年に一度か二度、自分が所属する劇団の公演の合間をぬってOは自分の舞台を作り続けていました。
私は宣伝用のビジュアル撮影と舞台撮影を任され、まだ全然台本が出来上がっていない、公演日と出演者とプロットが決まっただけの段階の次回作の宣伝ビジュアルを、Oやデザイナーとともに作らねばなりません。
ビジュアル作りは作品の方向づけのひとつなわけで、これからできる台本のイメージから大きく外れたくはないし、かと言って確信めいたことはほとんど決まってないしで、何を撮ったらいいか雲をつかむような段階なのですが、わちゃわちゃと話し合ううちになんとなく一筋見えてくる。その一筋を後生大事にかかえ迎えた撮影当日、実際に俳優が現場に入ると事前に打ち合わせたイメージよりも面白い絵が生まれる・・・そんなことがたびたび起きました。
不思議なことに、毎度パッと何か思いつくんです、Oの現場では。それをすぐ試させてくれる柔軟さと余裕がOにはありました。こちらの試行錯誤に俳優さんたちも快く応じてくれたのは、やはりOの作品を信用していたからだろうと思います。
そんな時を繰り返してきた数年前、Oは演劇の世界を卒業して家業を継ぐことを突然告げました。こちらにしてみたら突然でも、Oにとっては考え抜いた挙句なのでしょうが、ショックのあまりその経緯を聞きそびれてしまった。
私は最後の作品でも舞台撮影を担当しましたが、Oの作品に関われなくなるし観られなくなるさみしさと、それらを自分の中で消化できないのとで、いつものように接することができなかった、なんだかジメジメしてしまった。梯子を外されるような気持ちを一方的に抱いてしまった。最後の公演の打ち上げで何話したんだっけ。始発が走り出した下北沢の駅前で、私はどんな顔でOに接したんだっけ・・・思い出せません。「ありがとう!」ってハグするべきだった。あなたの創る世界にたくさんたくさん悦ばせてもらったよ、と笑って感謝を伝えるべきでした。
演劇から去った時点でクローズしたOの世界は、本人がこの世から去ることで完全にクローズになりました。もう逢えないし観られないんだという気持ちがじわじわと押し寄せています。
(写真は、最初に撮影したOの舞台写真から