こんにちは。フォトグラファーのむーちょこと、武藤奈緒美です。
友人の京都行きに便乗して、3月末の週末に京都へ出かけてきました。新型コロナウィルスが流行する以前は、毎年9月に好きなバンドが主催する野外フェス目当てで京都を訪れ、夏の終わりを感じまくるのが定番でした。2019年9月以来の京都行き、久しぶりの感があります。しかも花の季節の京都は初めてかもしれません。
今回の旅の要は、かつてその一帯が花街として賑わっていた頃に演舞場として使われていた大正時代の建造物の見学です。現在は閉鎖されているこの物件をリノベーションする会社の方と友人が知り合いで、興味を持ちそうだからと私を誘ってくれました。
木造3階建てのそこは、見るからに古いけれども建造物として危うさを覚えるほどには傷んでいない印象。空襲で街が焼かれなかった京都ならではなのでしょう、こうした建物が残っているのは。なにしろ街が焼けたのは応仁の乱の時だなんて話を聞くくらいですから。1階の事務所でご挨拶を済ませ、好きに撮影していいとのことで2階に上がりました。
広い座敷の向こうに椅子がひとつ取り残されたままの舞台。能舞台に倣ったのか、それともこうした舞台にはつきものなのか、松が大きく描かれた背景。桟敷席沿いの提灯の連なり、小ぶりな花道。舞台袖には御簾が下がっています。
現役のこうした木造の劇場には何度か足を運んだことがあります。そこで大衆演劇の公演を撮ったこともあるので、観客が入り照明が入るとその空間がどう変化するかのイメージが私の記憶の中にあります。その記憶を、今は役目を終えている目の前の空間にすっと重ねます。すると往時ここで繰り返されていた風景が伝わってくるし感じられるような気がしてきます。
マイクが設置されていないマイクスタンド、譜面の置かれていない譜面台、もう動きそうもない埃をかぶった照明機材や音響設備、華やかな舞台の周りにある真っ暗な空間、壁紙が剥がれ落ちた楽屋。あちこちに人が触れていた名残があって、ああ、ここは人々が芸を披露しそれを肴に呑んで笑ってが繰り返された「陽」の空間だったのだなと合点がいくのです。
座敷に向かう階段はけっこうな勾配があって、酔っ払ってここから落っこちた人がいただろうなと思ったら、その大騒ぎまでもが聞こえてくるようでおかしくなりました。
私自身は霊感がはたらくとか普通の人には見えないものが見えるとかいう体質なわけでは全くなく、記憶の中の経験と空想力とで補完して勝手気ままに作り上げた風景を見ている(というか感じている)に過ぎません。本当のところはどうだったかはもちろん知る由はないのですが、こういう想像に埋没しながら写真を撮るのは楽しい。むしろこうしたシチュエーションにおいて想像することそのものが、写真を撮る動機付けになっているとも言えます。
京都という街は歩けば歴史的な何かと遭遇する率がべらぼうに高い場所なので、歴女を自認する私は季節に関係なく興味津々で歩けるところです。
演舞場の見学の後、食事の約束がある友人と一旦別れ、雨に霞む夕方の鴨川沿いを歩きました。「平家物語」に夢中になっている最中ですから、六条河原とはどこぞや・・・などとGoogleマップを見い見い歩きます。
五条通りはある、七条通りもある、四条も八条も・・・地名や通りの名前として何かしら残っているのに六条というのがすっぽり抜けている。
六条河原というのは処刑の場あるいは敗戦の将の首級が並べられた場として「平家物語」にたびたび登場する場所です。
少しでも「平家物語」を体感したく、それは冷やかしなどではなくあくまでその場に立って想うということをしたいだけだったので、確たる場所はわからないまでもとにかく川沿いを歩くということをしてきました。処刑の場であったくらいだからきっと、今とは全く違う荒涼とした河原だったのではないだろうか。今は川沿いに桜並木があるけれど当時はどうだったのだろう。
六条河原が演舞場の時と違うのは、私の記憶の中の経験には紐付け難いわけです。ゆえにイメージが立ち上がってきづらいけれど、武士の時代の処刑場面が出てくる映画がある、また、ずっとずっと時代が下って、過去の戦争の記録映像や写真がある。そして現在進行形の戦争の映像が連日流れている。
複雑な気持ちになりました。今の京都に六条河原はなくなっているけれど、世界のどこかに今まさに六条河原的な場があるんじゃ・・・と思い至り、しおしおとした心持ちで宿に戻りました。
京都というのは昔と今とがたやすく交錯してしまうところなのだと、今回初めて意識しました。