フォトグラファーのむーちょこと、武藤奈緒美です。
早朝や夕方の空気に爽やかな風がすっと混じるようになって、暑さのピークも過ぎたかなと思い始めている9月になりたてのこの頃です。
去年春から受講してきた「平家物語」zoom講座が8月の半ばに終わり、現在卒業制作に取り組んでいます。月に一度の講座では毎回課題提出があり、私の表現手段である「写真」でどのように課題をまとめるかで頭をかかえ、試行錯誤を繰り返した1年3ヶ月でした。
そもそもの受講のきっかけは、新型コロナウィルスの蔓延で時間ができたところに、古典の中では圧倒的に興味があった「平家物語」のこの講座を知ったからでした。加えて、ほかの受講生の作品や先生のアドバイスに触れることで自分の発想力や表現力を少しでも広げたいという気持ちもありました。
1年3ヶ月の間「平家物語」の世界をのぞいてみたその到着点となる卒業制作。私は「平家物語」に流れる「鎮魂」を写真で表現するという計画を立てました。「デカく出たな、おいおい・・・」と思わず自分ツッコミをしましたとも。
とりあえず「平家物語」に描かれている現場に行こうじゃないかと、8月上旬京都に向かいました。
ほんとうは泊まりがけでいくつかの場所を巡って「平家物語」ワールドにひたひたになって撮影するのが私なりの理想形だったのですが、場所選びのために読み直しスケジュールを調整するうちに日数が取れなくなり、こうなったら寝ているうちに移動だ!と夜行バスを選択。当初平家の人たちが亡くなった海の写真を撮るつもりが、途中から木曾義仲が気になり出し(講座がきっかけで源義仲という人に好感を覚えるようになった)、この撮影旅を京都から始めることで、一度手中にした都を去る義仲の気持ちに自分を添わせてみようと考えた末の京都行き。
夜行バスから降り立った京都駅前で白い百日紅が朝日を受けてきらきらしているのがやけに心にしみました。義仲が京都を去ったのは冬のことなので、光も風も温度も取り巻く現象何もかもが違うのですが、「都を去る」「都落ち」という気持ちをひとたび思い描くと、もちろん義仲の比ではないにせよわびしさがじわりと迫ってきました。
義仲終焉の地・大津に着いて、「平家物語」の「木曽最期」に描かれる地名界隈・・・「打出の浜」に「粟津の松原」に・・・をとにかく歩き回りました。歩くとそこそこの距離だけど馬を走らせたらあっという間なんだろうとか、きっと当時は琵琶湖畔に砂浜があったんだろうとか、懸命に想像を膨らませながら。目の前の風景にはここが古戦場である気配など微塵もなく、ジョギングする人や釣り人の姿があり、天気は良く湖は空を映し、向こうに見える比叡山は青々としていて、どこからどう見ても穏やかな日曜朝の光景です。
ですがよくよく歩いてみると、湖畔の公園には戊辰戦争以降の滋賀県における戦没者の慰霊碑があり、それよりもずっと以前、信長の時代の比叡山焼き討ちに関連する石地蔵が祀られた場がある。こうしたものは人が訪れるところにあえて建てられるのか、知られていようがいまいがとにかく人が通うということそのものが鎮魂につながるのではないかと、はたと思いました。
その後、湖畔からさほど離れていない義仲寺へと向かいました。旧東海道沿いに位置し、塀の上から芭蕉の葉が茂っているのが見えるこぢんまりとした境内に、義仲の墓と彼を慕った松尾芭蕉の墓が並んでありました。蝉の声と池に注ぐ水音しか聴こえてこない、私以外誰もいない静かな境内で、芭蕉もきっと読んだであろう「平家物語」の「木曽最期」を音読しました。読もうと思ってそこに行ったわけではないのに、どういうわけか突然そうしたくなった。不思議な作用です。
帰り際に寺の方から「この寺は450年前にはすでにここにあって、あなたがくぐってきた門もその当時のままで、芭蕉さんもあなたが歩いてきたように東海道を歩いて同じ門をくぐってここに来ていたのよ」と教えてもらいました。60年くらい前までは東海道のすぐ向こうが湖畔だったとも。どうりで「粟津の松原」らしき場所が見当たらないはずです。埋め立てで消えてしまったらしい。
目の前の風景に「平家物語」の頃を見てとるのは無理でしたが、同じ道を歩き同じ門をくぐったなんて言われて、芭蕉の心模様が見えるような気になってしまったのはたしかで・・・俳句を詠むところまでは無理だった。この行程そのものが卒業制作だとして、さてそれをどう仕上げるか。私の「平家物語」はまだ続いています。