フォトグラファーのむーちょこと、武藤奈緒美です。
夏からこっち漫画読書にかまけ、それ以前に興味の赴くままほとんど反射的に買い込んだ書籍たちは自宅の一角に積み上げられた状態で、季節がひとつふたつ・・・と巡っていきます。
春の頃、撮影現場に大学生の娘さんと一緒にいらした私とおそらく同世代のお母様が、今写真を勉強しているんです、今こんな本を読んでいてと教えてくれたのが「他者の苦痛へのまなざし」(スーザン・ソンタグ著、北條文緒訳/みすず書房)という、戦争報道をするメディアに斬り込むように写真史や写真論を展開している本でした。初版は2003年。今年の3月に増刷されているのは、ロシアによるウクライナ侵攻を受けてだろうということは想像に難くありません。彼女に影響されて、私もすぐにこの本を取り寄せ読み始めました。
自分がカメラマンとして独立し幾年も過ごすうちに、アメリカ同時多発テロが起き、アフガニスタン紛争が起き、東日本大震災が起き、ウクライナ侵攻が起き・・・世界中で紛争や革命、テロ、銃乱射事件、災害がいくつも起きたし、現在進行形でもあります。その間現場を伝えるたくさんの写真を見ました。そこに、撮る側の「この事実を伝えねば」という強い意志と共に、「こう見せたい」という意図が少なからず入っていることを、自分も撮る側に居るから理解しています。「こう見せたい」の意図に都合が悪いものやアンバランスだと感じるものはフレームの外に追いやるし、その結果それを見る側の意識を都合のいい方向に仕向けることだって可能になります。見ないもの・見えないものはないのと同じになっていくからです。
報道写真の変容を時代を追って考察していくこの本の中で、ぎょっとする一節に出くわしました。
「カメラと弾丸との蔽い隠せぬ同一性」
「被写体を『シュート(撮影)する』行為と人間をシュートする(撃つ)行為との同一性」
「戦争をメイクするのと、写真をテイクするのは同じ行為」
「人間をシュートする(撃つ)」ような状況を経験したことのない私は、写真を撮る行為をそこに重ねて想像したことがなかったので、この一節は本を読み終えた後もざわざわした感触を残しました。
さあ気を取り直して次に読む本を・・・と部屋の一角の積み上げた本の中から何の気なし引っ張り出したのは「同志少女よ敵を撃て」(逢坂冬馬/早川書房)で、これは第二次世界大戦中に起きた独ソ戦にソ連が投入した女性狙撃手の物語でした。ざわざわが引き寄せたとしか思えないタイミングでした。
主人公が狙撃手として訓練していく過程を読むうちに「被写体を『シュート(撮影)する』行為と人間をシュートする(撃つ)行為との同一性」という一節を思い返していました。向こうの建物の屋上にいる敵に照準を合わせる行為は、望遠レンズで離れた被写体の顔にピントを合わせる行為にとても酷似していました。違っているのは、狙撃手が無の心地で引き金を引くのに対し私は「きた!いい表情!」と気持ちが動くと同時にシャッターを切ること。指を動かすときの心模様は当たり前ですが全然違う。けれど、伴う感情や結果を排したうえで行為そのものはもしかしたら紙一重なのか・・・ぐるぐるとそんなことを考えています。
「同志少女よ・・・」の物語に没入していくうちに、気づけば舞台になっている戦禍の街の風景が脳内に浮かんでいました。
想像にしてはやけに生々しいこの脳内に浮かぶ風景はなんなのだ?そもそもなんでこんなにビジュアルが浮かぶんだ?と原因を考えるうちに思い当たりました。
何が起きているのかを知らないのは恥ずかしいと思い、ロシアによるウクライナ侵攻が始まってからYouTubeチャンネル・テレ東BIZ「豊島晋作のテレ東ワールドポリティクス」やほかのニュースチャンネルで、侵攻の成り行きをこまめにチェックしているのですが、そこで報じられる現地の映像が記憶に残っていたのだと思われます。ウクライナの戦禍の街の映像が、独ソ戦下のスターリングラードに置き換わっていました。映像で見ているだけでもこうなのですから、毎日その風景がリアルな現地の人たちは・・・。
ニュースチャンネルで流れる映像は果たして現状を真っ当にとらえているのか。「こう見せたい」の意図の下に隠された見せたくないものがあるのではないか。そうした意識を持ちながら冷静に何が起きているかを追ってゆこう・・・もちろん1日も早く終息することを願いながら。
(奈良に行ってきました。お世話になったギャラリーで撮影した写真たちです)