フォトグラファーのむーちょこと、武藤奈緒美です。
11月を迎え、今年が残り少ないことに焦り始めているこの頃です。毎年同じ時期に同じ焦りを繰り返す・・・どうにかならないものか。そう思うのも毎年のことだったりします。やれやれ・・・
そんな中、去年春から今年夏まで参加した「木ノ下裕一と読む『平家物語』講座」の受講生仲間たちと、11月20日に開催される文学フリーマーケット(以下、文フリ)に参加することになり、ただいま出品準備に追われています。受講当初には思いもよらなかった展開で、初めてのことに緊張しています。
文フリで販売するのは卒業制作としてこしらえた作品で、わたしは「平家物語」の中の「木曾最期」という源義仲の物語を原文を引用しながら写真で表現してみました。
講座では毎月課題が出されていて、卒業制作はいわばその集大成。内容を決めるのも表現手段を何にするのかも受講生自身にゆだねられているのですが、わたし自身の判断ではあまりに心もとなく、他者の視点を求めて気のおけない編集者SさんとデザイナーWさんに声をかけました。
まずはSさんに引用した原文と写真の意図を伝えたうえで原稿を渡しました。
一週間後、「古典というだけで読む側がとっつきにくいと思ってしまわないよう、冒頭はできるだけ入りやすい原文を」から始まって、気になったことや改善した方がいい点などが書き込まれた原稿が戻ってきました。
「ここを削ることで余韻が生まれるから」と引用した原文をばっさりカットしたり、「この原文のあとに光が欲しい」ということで写真を並べ替えたり。
わたしが「なんとなく」と感覚的に済ませていたことが、彼女の編集目線によって整えられ、作品の流れがどんどんクリアになっていきました。
その編集者の目をくぐった原稿を次にWさんに託しました。
わたしは今回の作品意図を「矢印」という言葉を使って伝えました。京都を捨てて大津に向かう木曾義仲の矢印、義仲と彼の乳兄弟・今井四郎兼平の矢印、義仲を喪った兼平の矢印。行動や気持ちの矛先を「矢印」と表現することで、原文のリズムやそこにその写真を置く理由が伝えられると考え、それを踏まえてデザインしてもらうのがわかりやすく最短でたどりつけると思ったからです。また、この「矢印」は原文を読んでわたし自身が感じ取ったものでもありました。
数日後、「義仲と兼平のやりとり、たたみかけまくってみましたけど、まくりすぎですか?」と送られてきたデザイン原稿を確認して、「そう、これ!このたたみかけ!」と、意図がちゃんと伝わってかつ願ってもないリズムあるデザインになったことに感激しました。その後何度か細かい調整をし無事入稿を終え、あとは刷り上がりを待つばかりとなりました。
「平家物語」に夢中になっているさなか、「何やってんだ、わたし・・・」と、突然ふふふと笑いたくなる瞬間が度々ありました。なんだって今頃大真面目に「平家物語」を勉強してるんだ、と。もちろん単純に好奇心なんですが、その好奇心に導かれて自分の今の有り様に変化を起こせないかという気持ちがなかったわけではありません。
自分の仕事と全く違うジャンルに触れることで、また他ジャンルの人たちの表現に触れることで、自らの表現に新しい風を吹かせられたら・・・。新型コロナウィルスの影響で有無を言わさず時間ができ立ち止まらされたことが、自分の表現というものを見つめるきっかけになって、その結果の文フリ参加って。驚きです、ほんと。「何やってんだー!」って何度も笑っちゃう。
そして。ひょいと首を突っ込んだ「平家物語」の世界は、ちょっと時間ができたくらいでは手に負えない奥深さと魅力がてんこ盛りで、講座を終えてもこの作品とずっと関わっていたくなりました。わたしの表現に新しい風が吹くかどうかなんて今となっては二の次で、これからどんどん年を重ねていく中で「平家物語」がどう見えてくるのか、ここに描かれる生や死をどう感じていくのか。作品自体は変わらないけれど、受け手である自分には年をとるという変化がつきまとう。文学を楽しむってこういうことなのかもと、文学部を卒業してから25年を経て文学を味わう境地にようやくたどり着いた気がします。
(写真は、11月最初の日曜日、「平家物語」講座の受講生仲間の朗読劇「巴御前道行き」を見に、琵琶湖へ行ってきたときのもの。琵琶湖の変化が美しく、離れがたかった・・・)